天命釜
下野国天命(栃木県佐野市)で造られた茶の湯釜。 江戸時代中期の図説事典 和漢三才図絵に「東山殿時代以関東天明釜為良」(室町時代中期 関東の天命釜をもって良となす)と記されている。
東の天明
茶の湯が隆盛を迎えた安土桃山時代、筑前の芦屋釜(福岡県遠賀郡芦屋町)と共に 「西の芦屋 東の天明」と称される。 千利休をはじめ織田信長、豊臣秀吉が天命釜で一会を催した事が当時の茶会記に残されている。 「天命 極楽律寺 銘尾垂釜」(大阪市立美術館蔵)は重要文化財に指定されている。
釜の特色
大胆で独創的な造形と荒々しく力強い肌合い。 これらを兼ね備えた趣が魅力であると考える。
「天命」と「天明」
栃木県佐野市付近の地名。古くは「天命」と表記される。江戸時代以降は「天明」 そして現在の「佐野」に至る。上記の他に「天冥」「天猫」などの記述もある。若林家では歴史と伝統を重んじ「天命」を用いる。
歴史に登場した
天命釜
織田信長
「天猫 姥口釜」を所持しており、後に家臣の柴田勝家が拝領した。(藤田美術館蔵)
また「古天明 平蜘蛛釜」と最期を共にした松永久秀との逸話はよく取り沙汰される。一方当時の茶会記に久秀がその平蜘蛛釜で客人をもてなしたとの記述もある。
豊臣秀吉
天命釜の代表的な形の一つである「責紐釜」を所持。天正十五年正月大阪城内での茶席で使用された他、数多くの茶席で使われたとある。
「責紐釜」は貴人に茶を献ずるとき、蓋を紐で封印し毒物などの混入を防ぐため口際に鐶付がある。
徳川家康
「古天明釜 銘 梶」を所持。以前は大名茶人である古田織部が所持した。後に織部から家康に渡り尾張家初代義直へと伝来した。(徳川美術館蔵)
千利休
利休が好んだ「万代屋釜」は古天命釜を元に釜師の与次郎に作らせたといわれる。
また利休が秀吉の茶堂を初めて務めた天正十一年近江坂本城での茶会記に「責紐釜」をみる。
一千余年のこころ 今に受け継ぐ
天明鋳物の起こり
下野国天命(栃木県佐野市)でつくられた鋳物作品。 天慶二年(九三九年)平将門の乱を治めるため藤原秀郷公は武具制作のため河内の国(大阪府南東部)から五人の鋳物師(いものし)を長とする集団を佐野の地に住まわせたことが起源として伝承されている。
受け継がれし伝統
現存する記銘最古の天明鋳物は元享元年(一三二一年)の千葉県日本寺の梵鐘(国指定重要文化財)である。
茶の湯釜では「天命 極楽律寺 銘尾垂釜」(大阪市立美術館蔵)に文和元年(一三五二年)との銘がみられる。
「鋳銅梅竹文透釣燈籠」(佐野市郷土博物館蔵)は重要文化財に指定されており、作品には天文十四年(一五四五年)と刻まれている。同系の作品が他に三点存在する。
これらの卓越した技術により生み出された作品。その技と心は今の私たちへと受け継がれている。